【閑話休題】自分で自分の大嫌いだけど好きなところを晒します。~過去の自分供養~
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ヲタク専門カウンセラー K!naCoです、こんにちは!
とってもありがたいことにマシュマロ(質問箱)を沢山いただいていたり、『親密感1DAYトレーニング』のレポがまだまだ序盤だったりと、ブログを書くネタはたくさんあるのですが、今日はちょっと閑話休題として、
自分で自分の【大嫌いだけど、好きなところ】を晒したいと思います。
まっ、言ってみれば”過去の自分供養”です(笑)
なんかふと供養したいなーと思ったので、成仏させようと思います!(?)
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ある時に人間関係の”トラブル”って程でもないんですが、まぁ、何というか、仲違いと言いますか、意見の食い違いと言いますか、方向性の違いと言いますか、そういうことがありまして。
下記は、その時にぶわーっと書き出した「自分の想い」です。
コントロールが出るのも仕方ないし、わたしはわたしの意見を伝えたまでだし、それでキレられるならもうそれはそれだし、解釈なんて人それぞれだからわたしがどうこう言えたことではないということはわかった上で。
腹立たしいし、悲しいし、つらいし、苦しいし、寂しいのはもうしょうがないよね。
理解しようとすることもなく、彼女はこうだと決めつけて、嫌だ!無理!嫌い!私は私を大事にするから拒絶する!と関係を切ってしまうのは、自分を大切にしてるんじゃなくて、ただ現実と向き合うことから逃げてるだけなのよ。
それが悪いことだとは言わないけど、それじゃあいつまで経ってもしんどいよ。
自分を傷付けるっていうのがもう受け身なんだよなぁ。
傷付いたのは自分であって、相手が傷付けたわけではない。
大切なものを傷付けられたと感じて怒りを感じるのはごもっともだけど、そもそもなぜ傷付けられたと思ったのだろうかってところをみた方がいいんじゃないだろうか。
臭い物に蓋をしたってなんの解決にもならないのに。
誰も菩薩になれなんて言ってない。
相手を理解しようとすることは結局、投影の観点から見れば己を理解しようとすることで、それこそ自分を大切にすることになるんじゃないだろうか。
相手を拒絶するということは、自分を拒絶してることと何ら変わりないのに。
ただまぁこれもわたしの考えで意見の押し付けだ何だって言われたらその通りだし、仮にわたしの言った通りだとしても、相手がそれを望んでない(選択してない)のならもうどうしようもないし、結局わたしはいつか相手がそれに気付くことを信頼してただただ幸せを祈ることしかできないんだよね…。
みんなで手を取り合って一緒にやれば怖くないって、同調圧力に屈する日本人そのものって感じがする。
そうやってそうだそうだ!って何も考えずに同意して、いつの間にか被害者から加害者になってることなんて、この世にはきっと、ザラにあるんだろうな。
そもそも本当に必要のない人なら存在の認知すらしない。
居たとしても気付かない。
意識の中に居ない。
少なくとも自分が意識する中にその人がいるのであれば、それは自分に必要があって創り出してるわけで、自分の中の意識の反映でしかない。
目に付くってことは、その嫌な相手は、あなた自身なんだよ。
なんかこう、わたし、自分のこういうところが大っ嫌いなんですよね。
お節介だし、変にリアリスト(?)だし、自分(の意見)を”正しい”と思っている節があるし、コントロールしようとしてるのも丸わかりだし、理論や(屁)理屈をこねて正当化しようとしてるし、全体的に何様だよって感じだし。
「あっちを立てれば、こっちが立たず」みたいに、こっちから考えればこうだけど、氣持ちで見ればこうだし、でも、こういう見方もあるし、だけど・・・!!!
みたいに視点や思考、感情、意識があっちこっちへ飛んで、自分でもワケわからないくらい、色んなものが溢れちゃうんですよね。
これってね、シンプルにすれば単に「あなた自身を大切にして欲しい」ってだけなんですよ。
もっとシンプルにしちゃえば『愛』です。ベースにあるのは、ね。
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わたしが大好きだと想う人がさ、自分で自分のこと傷付けてたら切ないじゃん。
つらいじゃん。もっと自分を大切にしてよ!!!って思うじゃん。
でも、それってわたしのエゴというか、単なるワガママだからさ。
本人に『その氣』がなきゃ、わたしにはどうしようもできないワケで。
結局行きつく答えはいつもココになるんですよね。
「あぁー、わたしってなんて無力なんだろう」って。
そういう何とも言えない絶望感や虚無感、無力感、孤独感みたいなものを、もうずーっと、それこそ小学生くらいからずっと感じて生きてきた人生だったんですよねー。
カウンセラーって仕事をしてますが、時たま思いますもん。
わたしにやれることなんて何もないんじゃないか、って。
決めるのは全て本人だし、わたしがちょっと何か言ったところで、それが何か意味を成すことがあるのだろうかって。
本人が然るべきタイミングで氣付くだろうから、わたしが居なくてもいいんじゃないだろうか、って。
その度に「いやいや、そんなことはない。わたしと出会うことも相手が無意識に決めてきてるのだから意味はある。わたしはわたしにやれることをやるだけだ。」って意味や意義を何度も何度も見直してます。
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ただこれこそがまさに『エゴ』なんですけどねー(笑)
綺麗な道だけを歩むことだけが人生じゃないワケで。
そのプロセスにもちゃんと意味が合って、そういう体験をしているワケで。
人生上手くできてるんだから、それをただただ信頼すればいいだけで。
つまるところ、わたしがわたしを信頼できてないから、他人のことも信頼できないでいるんですよね。
ヒィィイイイ、痛いっ!!!!!(笑)
人って思っているよりもずっとずっと”強い生き物”なのにね。
勝手に弱い生き物にしちゃうんですよねー。わたしの勝手な願望も込み、で。
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と、まぁ、ほら。
わたし、めっっっちゃくちゃめんどくさいでしょ?????(笑)
これまでの人生で「考え過ぎじゃない???」って言われることが多々あったのですが、本当にその通りだと思います(笑)
そりゃ疲れるわ、って感じですよね。
なんかもうこういうのってホント理屈じゃないので、考えたってしょうがないし、答えが出るものでもないし、一生埒が明かないので、結局【推しを愛でてるのが一番(真剣)】になるんですよね(笑)
ただただ推しを愛でてるだけの時は、余計なこと考えなくて済みますからね。
推し、最高っ!!!!!!(うるさい)
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なんだかんだ言ってますが、そんな”めんどくさいわたし”もわたしは好きだったりするんです。
なんだかんだ人が好きだから、そんなめんどくさいことになってるワケだし(笑)
みんながみんな、もっと幸せになって欲しいという氣持ち自体はホンモノだし、それは何よりも願っているし、祈っているし。
ただちょっと自己犠牲が過ぎるので「もっと自分が自分を幸せにしてからにしような(真顔)」と言う感じでは大いにあるのですが(笑)
順番をちょっと間違っちゃってるだけで、氣持ちそのものは深くみていけば【愛】には違いないんですよね。
他人の幸せ ⇒ 自分の幸せ、ではなく、
自分の幸せ ⇒ 他人の幸せ、って順番を守れるようになれば、
わたしの願いは叶うと信じてます。
そもそも他人も『自分』だしね!(投影)
わかっちゃいるけど、それが難しい!って感じではありますが(笑)
しょうがないね、慣れてないからね。習慣って怖いね。
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というわけで(?)
自分で自分の【大嫌いだけど、好きなところ】供養でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!!
K!naCo - きなこ -