本日は個人的に”チャレンジングな自己開示”をしたいと思います。
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ヲタク専門カウンセラー K!naCoです、こんにちは!
本日は個人的に”チャレンジングな自己開示”をしたいと思います。
スピリチュアル、過去世、サイキック能力とかそういう単語をバンバン出していきますが「そういうのもあるのかー。へぇー。」くらいに読んでいただけたら嬉しいです。
現時点でもうかなり抵抗を感じているのですが、きっとわたしの過去世でなんかあったんだろうな(笑)
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スピリチュアルというものをわたしは頭では否定する気もなく、スピリチュアリティな話もわりとすんなり受け入れられるのですが、その話を”自分がすること”に対しては、ものすごく抵抗を感じる人です。
気が狂った人と思われる。
変な人だと思われる。
頭がおかしい奴だと思われる。
仲間外れにされる。
普通で居なきゃいけない。
何よりも恥ずかしい。
そんな想いがブワッと”感覚から溢れてくる”んですね。
失礼極まりないことこの上ないのですが、他人様の事だと否定もなく受け入れられるのに、自分事にするとどうしてもこういう抵抗が出ちゃうんですよね。
過去世でなんかあったんでしょうね(二回目)
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いきなりなんでそんな話を始めたかというと、わたしにもいわゆるサイキック能力と呼ばれるような(表現されるような)能力があるんだなということをいい加減、認めざるを得ないような流れになったから、です。
これはとても大事なことなので、先に言っておきたいのですが、サイキック能力があるということは何ら特別なことではありません。
わたしが気付いたのも【今まで自分の中に当たり前にあった感覚】に名称を付けるというか、その感覚をカテゴライズするならば、どうやらサイキック能力に分類?されるようだ、というようなことだったので。
そういう能力は誰もがもうすでに持っているもので、自覚しているかしてないか、その能力を眠らせているか目覚めさせているか、無意識に使っているか使ってないか、というような違いがあるだけです。
才能と呼ばれるのもそれですね。
Giftっていうのがわかりやすい表現なんじゃないかな。
だからなんというか、わたしは特別な能力を持っているということを言いたいわけではなく『またひとつ”自分”を知った』ということが言いたいわけです。
そういう前提のもと、読み進めて下さいませー。
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先日KFC限定のオンライン交流会をした日にわたしは大阪へ行きました。
癒しフェア in 大阪にある スピリチュアルカウンセラー 並木良和先生のワークショップに参加してきたんですね。
▼ これね。
並木良和癒しフェア2023 in OSAKA | 癒しフェア2023 in OSAKA
それもまぁ不思議な流れと言いますか、偶然のような必然的な流れで参加に至ったのですが、その辺は省略します(笑)
並木先生のことは、確か2・3年前くらいに作家の本田健さんを知った流れで知りました。
並木先生から感じられるものがわたしにとっては心地よく、お話されている内容も全てが全て納得できる(腑に落ちる)わけじゃないにしても「なるほど、そういう見方もあるのかー。」とか「これって心理学で学んだことと同じだなー。」と思うことが多く、大変興味深く見聞きしていたんですね。
以前からワークショップやセミナー等開催されていたんですが、東京での開催だったので、推し事優先なわたしは「まぁ、いつか、直接お会いできたらいいな」くらいに思っていたんです。
そのチャンスがですね、こないだとうとう来たんです。
わたしの中では同じ時に同じ空間に存在することが「会う」ことになるのですが、正直ね、ちょっとビビってたんです。
なんというか”見透かされそう”で。
これももうホントに感覚的なもので、こう表現するのが今は一番しっくり来るのでそういう表現になるのですが、”何が”とか”何を”とかそういうのは一切なく、ただただ「見透かされそうで怖い」というのがあったんですね。
「んんー、大阪なら参加できるし、(直接お会いすることに)興味はあるけどなー。」
って迷ってたんですね。
募集締め切りのギリギリまで(笑)
その時、ふと思ったんです。
「並木先生の元に集まる人達ってどんな人達なんだろう??この目で見てみたい!」って。
スピリチュアルカウンセラーとして活動されている方の元へ集まる、いわば、お客様ってどんな人達がいるんだろうっていうところにとても興味がわいたんです。
なんせわたしは偏見の塊のような意識を持っていたので(笑)
こんなセミナーに参加する奴は変な奴なんじゃないか。
現実が見えていない人ばかりが来るんじゃないか。
目に見えない世界であることをいいことに妄言垂れている人達なんじゃないか。
みたいなそれはそれはもう酷い偏見を持っていたんです。
投影の法則で言えば、並木先生がそういう方だとは到底思えない以上、そこに集まる方も当然そういう方じゃないっていうのは、冷静に考えればわかるのですが、感覚に染みついている怖れがあれやこれやと妄想を掻き立てるわけです。
わたしは自分の目で見たものや確かめたものしか信じない傾向にあるので、実際にこの目で確かめに行くことに決めたんです。
決めたらあっさり”行く準備”が整ったので、人の意識(自分のだけど)って面白いなーと思いました(笑)
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まぁ、結果はですね、もちろんですが、わたしのただの妄想かつ偏見でした。
老若男女問わず様々な方が参加されていました。
とても興味深かったのは、自由席だったのですが、皆さんこぞって、出来る限り前の席(少しでも並木先生の近くになる席)を探していらっしゃったことです。
全員が全員ってわけではなかったのですが、9割くらいの方がそんな感じだったので、個人的にはそれが一番驚きました。
「前の席って基本、後から来た人が仕方なく埋めるところじゃないの?」っていうこれまた勝手な価値観を持っていることに気付かされました。
ライブとかイベントならわからなくもないけど、セミナーとかワークショップのような学びの場では前に座ることを躊躇したり、遠慮したりする人が多いイメージがわたしの中で勝手にあったので、それがとても意外でした。
わたしはもちろん(?)その時はまだ周りにだーれもいない一番後ろの席で会場全体の空気感を楽しんでました。
前はどんな感じなんだろうと思って見には行きましたが、なんというか感じられる圧(エネルギー)がすごくて(大きくて)「あっ、これ、わたしには無理だ」って即行退散しました。
皆さん、エネルギッシュですごかったです(小並感)
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で、サイキック能力の話ですよ。
ワークショップがそもそも『「並木良和Gift~サイキックアビリティ」高次と地球と繋がり能力を開花』って内容だったんですが、わたし、これ、内容をあまり把握せずに行ってたんですね(?!)
わたしの目的はふたつ、
ひとつは”ナマの”並木先生にお会いすること
もうひとつはそこに集まるお客様を見に行くこと
だったので、ワークショップの内容は、こういっては何ですが、ぶっちゃけ何でもよかったんですよね(笑)
会場に行って、並木先生が登壇された時点で、わたしの目的はもう果たされるので。
あっ、ちなみに実際の並木先生は何かしらを通して見たり、聞いたりするのと、何らお変わりなく、わたしが感じてた”そのまんま”だったので、すごいっていうと語弊があるんですけど、すごいなって思いました(語彙力)
何の”ズレ”も感じないというか一致してる感があるってわたしからするとすごいことというか、安心できることなんですよね。
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さて、やっと本題ですよ。
わたしは普段から全感覚を使って、色んなものを確かめているんですが、それがですね、いわゆる”サイキック能力”だったんです。
一般的によく言われる透視能力とか、聞こえないはずの音が聞こえるとか、スプーン曲げとかで使われてる念動力とかっていうのはわたしにはありません。
幽霊の姿が見える、とかそんなのはないです。
見えてる時ももしかしたらあるのかもしれないけど、見ないようにしてるか、意識してないか、どちらかと言えば”感じる”こと(霊感)のが多いので、見てはないですね。
お葬式の時にロウソクの火を使って、挨拶しに来てくれてるのがわかるくらいかな。
明らかにね、風に吹かれた時の動きとは違う動きをするんですよ。
そういうのを見ると「あっ、挨拶に来てくれてるんだな」ってわたしは思ってました。
霊視能力的なので言えば、ホントそれくらいです。
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よくね、カウンセリングであれ、他の日常生活であれ、
「なんでわかったの??」
って言われることがあったんですね、昔から。
わたしからすると「???わかるも何も、自分でそう物語ってるやん」って思うのですが、それがいわゆるわたしのサイキック能力というか”才能”と呼ばれるものだったみたいです。
わたしはどうやらいわゆる第六感とか、それ以上の感覚(があるのか知らないけど)が鋭敏みたいです。
わたしの言う全感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚に直感や『洞察力』というものが加わります。
思えば、小学生の頃から「洞察力に長けている」と言われていたんですが、この洞察力こそがわたしの能力なんですね。
洞察力って一言で言っても、その中身はもっと細分化されると思うんですけどね。
誰ひとりとして全く同じ能力を持っている、ってことはないとわたしは思うので。
(だから、誰もが唯一無二の存在だと言える。)
わたしはどうやら人よりも見えている世界というか、感じてる世界が、広くて深いので、得ている情報が多いようです。
さらに、物事の本質を見抜く力(これが洞察力)があるので、その人が『本来の自分に嘘をついているかどうか』って大体わかります。
あっ、そうか!こういうことを言うと、大体の場合、怖がられてたので、言わなくなったことを今書いてて思い出しました(笑)
その人がその人らしくない言動を取っていると、違和感を感じるんです。
それがわたしは不信感というか居心地が悪く感じるので、そう感じる人からは距離を置いたりするんですが、それはそれでなんか罪悪感を感じちゃっていたんですよね。
たぶん、本人は意識してそうしてるわけじゃないってことを無意識に知ってたんだと思います。
なんか違和感は感じるけど、本人は自覚してなさそうだし、まだ受け取るタイミングじゃなさそうだし、と思って、飲み込んできた言葉は数知れず(笑)
感知はしたけど、言葉にせず飲み込んだことって、わたしにはたくさんあります。
それも我慢癖に助太刀してたんだろうなって今になって思います。
そういうので、たくさんの無力感を味わったし、理解されない孤独感も心底味わったし、随分と寂しい思いもしました。
今となっては良い思い出というか、自覚するために必要なプロセスだったなって思いますけどね。
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セッションでも才能や価値、魅力を見つけることを得意としてましたが、それもこの洞察力のおかげだったんだなと今なら思います。
カウンセラーになって『分析と感覚とバランスがいい』というようなことを言っていただく機会が何度かあったのですが、それもわたしからすると「???」でした。
わたしの感覚で言えば『思ったこと(感じたこと)をそのまま言葉という音に乗せて伝えているだけで思考は使ってない』んですね。(自意識的には)
だから、セッションとかで話したことを話した瞬間から忘れているというか、自分でも何を喋ったかってわかってない時がよくあります。
言われてたから「あぁ、なんかそんなこと言ったね!」ってなるくらい(笑)
伝える言葉というか表現には思考を使いますけど、それ以外は(わたしの体感では)感覚全振りって感じなので、論理的とか分析力とか賢いみたいな表現の言葉(心理学的に言うと男性性を使うような言葉)ってなんか腑に落ちなかったんですよね。
(そう言っていただけること自体はめちゃくちゃありがたいし、嬉しいです!)
それも結局はいわゆる洞察力(感覚、女性性)を使ってるからであって、思考(男性性)を使ってるわけじゃないからなんだと思います。
まぁ、伝えることに思考を使っているので、男性性も使ってるっちゃ使ってるになるのかもしれませんが(笑)
とはいえ、そんなの傍から見ればわかりっこないので、そういう表現になるのも無理はないなと自分の感覚、能力を自覚した今ならわかります。
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こういう能力というか才能って自覚して、受容しないことにはまず使いこなせないんですよね。
使いこなせないって、要は、自分でコントロールできないってことですね。
わたしが自覚して受容しよう!って思ったことのひとつに「わたしが無自覚であることで、無意識に誰かにエネルギー的な痴漢行為をしている可能性がある」って知ったから、なんですね。
使いこなせないってことは自分の意図や意識とは関係なく、勝手に相手の情報を取ってる場合があるってことなんですよね。
実際にわたしは今までそういうことをやってしまっていたなと思い当たることがいくつもありました。
これってすごく失礼だし、危険なことだなってわたしは思ったんですね。
たとえ、悪気がなくてもね。
何より、わたし自身がすごく疲れちゃうし(情報過多で)
だからこそ、ちゃんと使いこなせるようになりたいなと思ったんです。
自覚して、受容して、表現してこそ、その能力が活きるというか”活かせる”し、使いこなせるようになるし、磨いていくことが出来るんです。
セクシャリティ(セクシャルエネルギー、本来の自分の魅力、自分オリジナルのエネルギー)の話をする時に、わたしは必ず「まず自覚することが大事ですよー!受容する、受け入れることがとっても大事ですよー!才能は誰しもが持っているものだけど、磨かないことには活かせないので、さっさと自覚して磨く段階に行きましょうねー!」なんて話をしてるんですが、ものの見事にブーメランとして返ってきました(笑)
オンライン交流でもこの話しましたね(笑)
魅力であれ、才能であれ、能力であれ、セクシャリティであれ、自分らしさであれ、表現される言葉はさまざまですが、どれも辿る過程は同じだとわたしは思っています。
自覚して、受容して、表現して、与える。
「表現して、与える」はセットだったりするんですが、とりあえず表現しないことには始まらないという意味で、わたしは分けてます。
自覚するのも、受容するのも、抵抗が出るんですが、磨いていくことを思うと、この肉体の持つ有限な人生は短いな!!!ってわたしは思います。
自覚するのも、受容するのも、大事ですよ、ホント(おま言う)
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わたしはこういう能力を持っているんだって自覚して、受容しようとし始めて、一つ大きな恩恵がありました。
▼それがこちら。
以前に比べてだいぶ自己否定がなくなったはずなのに、なーんか拭いきれてない感あるんだよなぁとずっと思ってたんだけど、わたしが認識してた"自己"が5%だったからだった。残り95%を否定し続けてたから、ずっと違和感があったんだなってことに気付けてスッキリ!
— K!naCo - きなこ - @ヲタク専門カウンセラー (@kinaco215) 2023年4月26日
目に見えない能力を、見て見ぬふりする、ないことにする、そんな能力はわたしにはないって否定するということは、自分の95%を否定するということだったんだなって気付いたんです。
このパーセンテージは、人の顕在意識と潜在意識・無意識の(およその)割合です。
わたしはずっと顕在意識(5%)だけを自己(自分)として認識してたんだってことに気付いたんです。
でも、実際は残りの95%も含めて自己(自分)なわけですよ。
感覚って潜在意識から来るものもあるので、それを否定するということは”95%の自己を否定していること”になってたんですね。
そこを今受容しようとし始めたので、拭いきれてない自己否定感が随分と軽減されました。
これはわたしにとって大きな恩恵でした。
*
まだ受容し始めたところなので、自分で把握できてない部分も、上手く表現できていない部分も多々あるのですが、その辺はおいおい出来るようになっていく予定です(笑)
皆さんにもこういうのってあると思います。
その内容というか、形というか、感じ方、感性、感覚、(能力の)現れ方、扱える深さ、大きさ、みたいなものは人それぞれ違いますけどね。
それっていわば、それぞれに持ってきた今世の使命が違うからで、一緒である必要がないというか、一緒だと意味がないんですよね。
だから、比較も競争も嫉妬も優越感も劣等感も一切不要です。
何も特別なことはありません。
特別と表現するならば、誰もがみんな特別です。唯一無二です。オンリーワンです。
あなたも、わたしも、ね。
*
長々と書きましたが、そんなわけで、自分の感覚が人とは違うということをやっと自覚したよ!今後それを活かせるように精進していくよ!というお話でした。
こういう感覚って使ってこそ磨かれるので、そういう意味ではカウンセラーという職業をやり始めたのも”必然”だったんだなって思います。
それでは!
明日もよい一日をー!!!
K!naCo - きなこ -