K!naCo - きなこ -

ヲタクの幸せを「ココロ」から全力で応援するヲタク専門カウンセラー

わたしはこの世をもっともっと自由に謳歌したいと思っているのです。

 

わたしはこの世をもっともっと自由に謳歌したいと思っているのです。

 

ヲタクの幸せを「ココロ」から全力で応援する

ヲタク専門カウンセラー K!naCoです、こんにちは!

 

昨夜は師匠である根本裕幸先生のお弟子さん向けにクローズドで講座を開催しました!

 

講座をサポートして下さるスタッフさんが講座の写真を撮ってて下さいました^^

 

さん、ありがとうございます!!)

 

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見て、このわたしの幸せそうな顔を(何)

 

スタンプで隠れてますが、受講生さんが一緒に拍手して下さっていて、感動すると共に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

ありがとうございますー!!!!!(感涙)

 

 

何でもそうですけど、人ってひとりで何かを成し得ることって、まぁそうそうないよなってわたしは思うんですよね。

 

ひとりでやったと思い込むことはあるでしょうけど。

 

例えば、絵を描くにしたって、絵を描く道具まで自分で作り出したわけじゃないでしょ??

 

絵の具の開発?発明?からやったわけじゃないでしょ??

 

フリーランスで仕事するったってそうですよ。

 

ネット環境まで自分で開発したわけじゃないでしょ??

 

日本全国、電波が飛ぶように環境を整えてくれている人がいるわけですよね。

 

ご飯食べるのだってそう。

 

野菜でも、お肉でも、お魚でも、たくさんの人達のおかげで、自分のお腹の中へと入れれる段階にまで来るわけですよ。

 

めちゃくちゃ大雑把に話してますけど、事細かく見ていけば、色んな人の協力があって、自分の「生」は成り立っているんだなとわたしは時より思うわけです。

 

 

わたしは「生かされているな」って思うんですよね。

 

 

 

かつてはわたしも「自分ひとりが頑張っている」とか「わたしだけがなんでこんなに頑張らなきゃいけないの」とか「わたしばっかり損してる」みたいな思いを持っていました。

 

まるで、こう、自分ひとりで世の中、とまでは言わないけど、身近なところを回しているような、そんな感覚を持ってました。

 

今にして思えば、言葉がキツくなりますが、随分と「傲慢だったな」って思います。

 

まっ、まだまだ未熟だったんですね。

 

 

その未熟さには依存心とかニーズがたくさん含まれているんですけど、その依存心とかニーズっていうのは、かつて自分が欲したけど得られなかったものも含まれているんですよね。

 

親に甘えたかった気持ち

親にかまって欲しかった気持ち

親に話を聞いて欲しかった気持ち

親に我儘を受け止めて欲しかった気持ち

親にわかって欲しかった気持ち

 

何らかの事情で、それらを満たすことが出来ず、心の奥底に閉じ込めてしまった気持ちが別の形になって出てきてるんです。

 

ただ、かつて、自分の親ですら満たせなかったこの気持ちを誰が満たせるんだって怒りや絶望、諦念を抱いていたりするんですよね。

 

それをどこにもぶつけようがないから、自分自身へ向けて、自己嫌悪や自己攻撃、自己卑下という形で消化しようとするんですけど、自分の中で色んな感情に形を変えているだけなので、残念ながら消化されないんですよね。

 

便もトイレに出さないと、お腹がスッキリしないでしょ??

 

あれと同じなんですよね。

 

だから、出さなきゃいけないんですけど、ただ出すだけではスッキリするだけで”満たされはしない”んですよね。

 

 

>かつて、自分の親ですら満たせなかったこの気持ちを誰が満たせるんだ

 

これね、ひとりだけいるんですけど、誰だかわかります??

 

ちょっと考えてみて欲しいんですけど、誰か思い浮かびますか?

 

 

 

 

答えはね、

 

 

『大人になった自分』

 

 

です。

 

 

小さな頃の自分の気持ちを誰よりも正確にわかってあげられるのって、大人になった自分なんですよね。

 

 

かつて、夜の、暗い、部屋の中、ベットの上でひとり

 

「わたしの気持ちなんて誰も分かってくれないっ!!!!!」

 

と怒り、絶望し、孤独を感じ、悲しみに明け暮れたあの時は、確かに”独り”でした。

 

誰も分かってくれる人はいませんでした。

 

 

でも、時を経て、あの時の自分はもう”独り”じゃなくなりました。

 

大人になった”今の自分”がいるからです。

 

あの時の気持ちに寄り添える”大人のわたし”がいるからです。

 

 

誰にだって、大人な部分、子供な部分があります。

 

言い換えれば、自立的な部分と依存的な部分ですね。

 

大人な、自立的な自分が、子供な、依存的な自分の面倒を見ることもできるし

 

大人な、自立的な自分がお疲れだったら、誰かの手を”借りる”こともできるし、

 

その辺は自由に選択できるんですよね、本来は。

 

ただ一部の依存的な部分”だけ”に目を向けて、自分は依存的だと思い込んでしまえば、誰かに何とかしてもらうとか誰かに満たしてもらうとか誰かに面倒見てもらうっていう誰かを介した選択肢しかなくなるんですよね。

 

逆に一部の自立的な部分”だけ”に目を向けていたら、自分で何とかしきゃいけないとか自分ひとりで何とかしないといけないとか自分の面倒は自分で見なきゃいけないって誰かを介する選択肢がなくなるんですよね。

 

どっちもあっていいんですよ、本当は。

 

誰かを介してもいいし、自分でやってもいいし、どっちだっていいんです。

 

どちらの選択肢も用意されている自由な存在ですから、わたし達は。

 

自分の頭で”考える”世界はとってもとっても小さくて狭いです。

 

だけど、本来はもっともっと大きくて広い世界にわたし達は居ます。

 

それは、どれだけ数多くの選択肢を持てるか、言い換えれば、どれだけ数多くの選択肢を意識できるか、によって変わってきます。

 

 

わたしはもっともっと自分の意識を広げて、この自由な世界をもっともっと謳歌したいなって思ったりするのです。

 

 

なんかちょっとワクワクしません??(笑)

 

 

そのために、まずは自立的な自分も依存的な自分も許してあげるところから、ですね。

 

 

では!明日もよい一日をー!!!

 

 

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